「見えるけど、見えないものって?」といったなぞなぞのような質問を、集まった高校生に考えてもらったことがあります。悩みつつ、楽しそうに思い思いの答えを披露してくれました。
対する私は、なぞなぞ的な質問が苦手です。たまに出されると、とたんに足元から嫌気が立ち上ってくるのが分かるくらいに苦手です。そもそも、考えても分からなそうなことを考えさせられている構図がイヤです。かと言って「だから?」と答えるのは、いかにも大人げない。本当にわざわざ面倒なことを起こさないで欲しいと、そう言いたくなる。
はたして高校生たちが若さゆえに考える力を持て余していたのか、あるいはすっかりまともな大人だったのかは分かりません。ただ、わたしのひそかな嫌悪をよそに、問いかけへの応答を楽しむ様子を見ていると、主催側のかすかな責任感と「大人」の意地がめばえ、またその雰囲気にもつられても行きました。
最初に浮かんだのは「闇」、あるいは「無」。似たような感じで「空間」、「不在」なども浮かびました。が、なんとなくどれもひねりがない感じで口にする気にもなれず、ちょっとその気になった反動で、逆にやる気をなくしてしまいました。まあ、その程度の「大人」です。
残りの時間は、高校生の盛り上がりをよそに、その場を見守っている格好だけつくろって漫然としていると、ふと、「闇」ならぬ「光」もまた、「光を見る目」がなければ「見えるけど、見えないもの」だなと思いました。
そんなこと、当たり前です。あまりに当たり前ですが、しかし光という、何よりも「見える」はずのものであっても、その光を認めるものによって初めて、その存在が見られるのです。あるいは、光を認めるものの存在において初めて、光は現れるのです。「見えるものがなくても本当はあるんだ」と言うのも、存在を認めるものなしには意味をもちえません。
天地創造の神は、『旧約聖書』創世記の冒頭で「光あれ」と言ったのち、光が現れるのを見てよしとしたと記されています。それも、あくまでも光の存在に先立って神が在ることが肝要なのでしょう。神も何もないなかでただ在る光は、闇とも分かちようのない何かです。
「見えないものは、見たいじゃないか」という言葉を私が聞いたのは、二十歳になるかならないかのときでした。電子顕微鏡を用いて目に見えない量子の世界をあきらかにしてきた実験物理学者の故・外村彰さんの言葉です。
そのころ勉強していた物理学や数学の知識が、今はもう跡形もないことを思うと、たまたま参加した何かで聞いたこのフレーズが、いまだに鮮明さと新鮮さをもって記憶されているのは面白いことです。
私もきっと、見えない何かを見たいと思ってきたのでしょう。
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私はあるときから日記を完全につけなくなったのですが、先日、実家を片付けて出てきた日記帳で、それが私がLiving in Peaceの活動を始めたころだったと分かりました。
2012年からはじまる5年連用日記は、その存在じたいが何かを記していこうというかつての意志でありながら、結果ほとんどが空白で終わったきれいな日記帳をたぐっていくと、「7月29日 日曜日」とあるページに、めずらしく数行の走り書きがありました。
「数日前に見学申し込みをしておいたLiving in Peaceといふ団体のミーティングが渋谷のビル八階一室で12:00からあつた。何か実りはありさうではある。」
以来、日記を書かなくなる日々のなかで、私はLiving in Peaceと出会い、児童福祉の世界と出会い、子どもと出会い、そして私と、周囲の人と出会いました。
これは何かと語ること、目の前のことに意味を与えることを放棄して、分からないままに身をゆだね、日記帳に残された膨大な白紙の向こうで、出会い、出会ったまったく新しいものたちを、「実り」という言葉ではたして表現しうるかどうかも、わたしは分かりません。
ただ、わたしが誰であるか、ということをいっさい抜きに、行いそのものが認められることがいかに喜びかということを、私はそこで知りました。また、みずから正しいと信じることに向かうことが許される場がいかにごく小さな、無名の日常を変えうるかということも、私はそこで知りました。
初めは決定的に新しかったそれらすべてのことも、今ではむしろ当たり前になりました。わたしの小さな日常です。ときに怒り、哀しみこそすれ、それらよりもはるかに喜びと楽しみとにあふれた、わたしの小さな日常です。わたしに気づいてくれる大小さまざまな色とりどりの目に見守られてある、わたしのいまです。
わたしたちはよく「未来」について語りますが、未来はつねにいまここにないものであって、今だけがつねにここにあるものです。10年後、100年後、1000年後を映し出すような光であれば、私はしいてそれを見たいとは思いません。
私が見たいのは、いまここを明るく灯す光です。それを「希望」と呼ぶのなら、私は希望が見たい。希望という光をこそ、見えないものを見ようとする目でありたいと思います。
だって、せっかく生きてるんだからね。
そのための今を、これからも、まっすぐ、まっとうに、ぞんぶんに歩んで行こうと思います。
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