少し前、寝坊助にはめずらしく随分早くに目が覚めたときのこと、ふと外に出てみると、明け方、乳白色にかすむ空の高いところに、その空よりいっそう白く、また明るい満月が、私をまっすぐ見下ろしていました。
夜半にのぼる月も、その時々でたいへん違った姿を見せてくれます。とりわけ満月の光がさす晩は特別なものです。月がみせる超然とした隔たりはときに人を不穏にさせるでしょう。しかしながら、そこにはやはり人の手を超えた自然の粛然とした気高さがあるわけです。
早朝の満月は、新しい日の始まりにふさわしい、おだやかな軽やかさをたたえていました。そしてそれは、夜の月ばかりを見慣れた私の意表をすっかり突くかたちで空に浮かんでいて、みごとに美しいものでした。
こうした美的経験は私たちの日常のいろいろな場面に潜んでいます。しかしその多彩なありようにおいて、あるものを美しいと感じるその瞬間では共通して何か予期を超えるものが生じています。同じコスモスを二度美しく感じるなら、それはきっと同じ経験の繰り返しではありません。すでに一度美しいと感じた私たちの目を裏切って、コスモスがさらに別の美しさをもって現れるとき、私たちはいま一度コスモスを美しく感じることができるのです。
その意味で、一回性の出会いにおいて経験される超越にこそ、美の本質はあります。闇夜の月しか知らず、暁の月の美しさをあらかじめ思い描くことはできません。けれどそれゆえ、予期を超えた美を認め、新たな世界と出会えたときに私たちは自由を経験するのだと思います。
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ボランティアの活動もまた、自由の経験であるという点では同様です。報酬も、他者の命令もなく、それをしないことがむしろ自然だろう状況において、私たちは自らの意志において何かをなす。そのいわば「余計なこと」によって、自らが自らである証をそのつどの経験のなかで、私たちは新たに確認するのです。
考えてみれば、私たちはみな報酬も、他者の命令もないままに「生きる」という非常ににやっかいなことをしています。であれば、ボランティアの活動がまさに「余計なこと」であることによってそれは、私たちが自由な主体として生きていく重要な一局面になります。
「利他」をめぐる論集(※)のなかで批評家の若松英輔は、民藝運動をかたち作った柳宗悦の「工藝の美は、奉仕の美である」という思想から、利他の一回性について論じています。ひとの手による替えのない器(うつわ)が、日々の生活のなかで美を宿すのは、それがただ一つのものとして持ち主の用に仕えようとするからです。そのように利他的な行いもまた、個と個の関係性においてけっして繰り返さない一度きりの出来事として生じると若松は述べます。(※ 伊藤亜紗ほか『「利他」とは何か』(集英社新書, 2021))
この「うつわ的な利他」という発想は、美学者の伊藤亜紗が同じ論集で指摘するように、器が容れ物としてもっている余白の重要性を、利他においても確認する視点を与えます。良い器は思わず手に取って、使ってみたくなるものです。それ自体、確かなものでありながら、同時にこれから相手と結ばれる心地よい関係を何がしか期待させるものとして在ります。
ボランティアは、「無償の善意」という何となく聞こえのよい程度のものではありません。自分のあずかり知らない他者に向かって、そのときごとに一回性の経験を重ねていこうとする意志にこそ、ボランティアの行いにおいて発揮されるべき(しうる)主体性があり、そこでこそ生まれうる自由のかたちがあると、私は信じています。
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このたび、元旦に発生した能登半島地震で亡くなられた多くの方々に、謹んで哀悼の念を表します。また被災され、現在も大きな不安のなかで避難生活を続けられている方々に、心よりお見舞いを申し上げます。
幼いときから輪島の器に親しんで育った私のなかで、能登はつねに心近しい場所であり、震災のちょうど一週間前には、十数年ぶりに能登を再訪する機会を得たばかりでした。
大災害からの回復には、ありとあらゆる支援が長期にわたって必要になります。一日も早い安心と日常の回復を願うとともに、被災からの復興を祈る私たちがそのための器となるべき思いを、きちんとつないでいかねばと思います。
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