太陽、月、そして地球は、18年という年月を経て同じ布置へと舞い戻ります(サロス周期)。
かつて18歳になったとき、それまでと違う何かが始まったと感じました。それがいったい何だったのかは分かりません。しかしそのあともかなりの間、私のなかには18歳の私があって、その私が私を生きていました。
ようやく倍の年齢に達したとき、ふたたび何かが変わりました。来し方にはっきりと線が引かれ、もはや18歳の私ではありませんでした。そんなことをわざわざ宣言するのも恥ずかしいので、人知れずそれを「第二成人」と名付けましたが、それは明確な変化でした。
生きることが単線的な時の経過ではないだけでなく、ひとつなぎですらない断線(断片)の連続(集合)である可能性があるように思います。そこに、天体たちの見事な周回や、周回しながら上昇する螺旋を重ね描こうとするのは、私たちのささやかな願望かもしれません。
他方、私たちのからだは、さまざまな連続性のうちにあります。あえて話を飛躍させると、私たちが日常的な足場と倚って立つ心的な人格といったものが連続性や統一性とほど遠いのなら、むしろからだを基点に考えたほうが発想として生産的です。
私たちはからだを持って生きている何かではく、からだこそが色々なものとのつながりにおいて私たちを存在たらしめている、と考えてみたらどうか。それは、物理的、社会的、歴史的、自然的なつながりの結晶です。
「つながり」と聞いたときに、私たちは点と点が線で結ばれているイメージを浮かべます。しかし私という存在の外に何か別な「線」が在るというより、私のうちにある他者(の陰影)として、それは在るような気がします。何かを仲介させている限り、それはむしろ相手との距離をあらわにします。つながりを介さないつながり、「他者の分有」とも言えるものがあると私は思います。
親しくしている人のことばを私が語っているとき、自分の声が家族のものと似ていると気づくとき、また空から届く鳥たちの澄みきった声に心をおどらせるとき、私は私のうちなるつながりを感じるのです。また私は現在を超えて、私自身の過去と、あるいは私の誕生以前の過去とも、このからだを介してつながっているのです。
そうしたつながりの現われとして私が存在していることは、驚くべきことです。もちろん、「線」としてのつながり、生きる手段としてのつながり(=アクセシビリティ)が必要となる場面も多いでしょう。しかしそのような場合でも、存在の不連続を架橋する無数のつながりをすでに内に持ち、また持つがゆえに自身が生きていると気づいていることには、大きな意味があるはずです。なぜなら私たちの自由とは、そうしてうちに秘められたつながりが奏でるものだからです。
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