2022年も暮れようとしています。
世界で、また日本国内で、あからさまな暴力が、力の暴発が、今までにない形で繰り返されました。
と同時に、この3年来の新型コロナウィルス感染症をめぐる状況のなかではもっとも、誰かとともにいやすい年でした。
そのためいわゆるコロナ禍において、オンラインの環境が充実する、という以上に、私たちの方がそうした環境に適応していかざるをえなかったことの意味合いを、私自身、たびたび考えることになりました。
何より、もっとも伝えたいと思って、労力を割いたことが、そういうことに限って、まるでその努力に反比例するかのように、まったく届いていなかった。そのことに色々な場面で気づかされました。
コミュニケーションは必ず、〈私〉と〈あなた〉がいて、しかも〈私〉と〈あなた〉が違う、という地点から始まります。〈私〉と〈あなた〉が同じであれば、コミュニケーションなど必要ではないからです。
だから、コミュニケーションは〈私〉と〈あなた〉の違いを架橋するものでなくてはいけません。
けれどPCから聞こえてくる誰かの言葉は、いかにそれが高品質であれ、PCというモノから発せられた音です。それは、コミュニケーションの原動力をあらかた失っています。
音は、聞かれていないときには消え去ります。一方で声は、聞かれていなときでも反復され、場合によっては聞かれないからこそ一層大きな音として、私たちのうちにこだましうるものです。
「あのとき、あの人が言ったことはどういうことだったのか」。相手の不在において、そう向き合わざるをえない力を、声は持ちます。
ときにそれは一生をかけて向き合うべき深刻な内実を備えたものでありえましょう。
けれど、声がそれほどのものであるがゆえに、目の前の人との明々白々の違いが何らかの意味において乗り越えられることがあるのです。
声が単なる音として、あたかもBGMであるかのようにしか聞かれないのなら、いくたび再生されたとして、それは聞きなれた音です。声として聴かれることはありえません。
その声(の異質性)は、むしろ繰り返されるたびごとにいっそう耳に届きえないものへと平板化するでしょう。
私たちが目の前の人の声を受け取れるのは、決して無視しえない生身の身体がそこにあるからこそです。
生身の身体から発せられる声だからこそ、自他の異質性と向き合うなかで、〈私〉と〈あなた〉がともにあることを繋ぎとめることができるのです。
他者の理解不可能性に直面するごとに、私たちは自他の違いを仕組みで乗り越え、共存可能な社会を作ろうとしてきました。
しかしそのような社会においては、結局のところ、他者は理解できない脅威以外の何者でもありません。
忘れてならないのは、違いへの応答から、コミュニケーション、すなわち自分と違う他者とともにいるという事態が初めて生まれるということです。
この3年間のあいだに特に減ったと感じる声を聴く機会は、実際のところ、それ以前から失われても気づかれないほどになっていたはずです。
声を声として聴く。
そのシンプルな練習を、あるいはリハビリテーションを、私たちはもくこれ以上先延ばしにしてはならないと感じます。
代表中里のコラムは毎月更新!バックナンバーはこちらからもお読みいただけます!