「三つ子の魂百まで」と聞いて胸中をよぎるものは、人それぞれに違うかもしれません。
私の場合、3歳(ばかりか小学生くらいまで)のことはすっかり覚えてなく100歳もひとまず彼方ですので、10代から今にいたるまで、ということにはなりますが、その諺を見聞きするたび、密かに「自由」の二文字を胸のうちに温めてきました。
思えば、「自由」という言葉が何を意味するかもよく分からない時分から、一心に自由を願ってきたような気がします。それは何も私に限らないでしょう。人が未来に向かって生きようとすること自体が、何人であれ自由を、自由に生きることを必然として求めるものです。
自由とは何か、という話はさしあたり措いておきます。意識する・しないに関わらず、人はみな自由を知っているはずだからです。(とはいえ、ひとまずそれは「選択肢の多さ」とは無関係なものです。選択肢が増えれば人が自由になるわけではないこと、選択肢が増えなければ人が自由になれないわけではないことは、少し立ち止まれば容易に了解されます。)
そして臆面もなくわたし自身の話を続けるなら、人は誰しも「自由への存在」なのだと言い切りたくなる私の性向は、私がたまたま校則のない(加えて、異性の目を気にしなくてよい)呑気な男子校で中高の六年をのんびり送れたことに明白に起因します。
例えば、教室を見渡すと寝ぐせそのままにパジャマのような格好で眠そうにしているやつの横で、最近とみに色気づいた茶髪&ピアス&バンドマン気取りで(実際のところ半径1メートルにしか吹かない)風を吹かしているやつがいること。おいしそうな弁当を昼休みに堪能しているやつの隣に、弁当がなくてコンビニに調達しに行ったりラーメン屋にしけこんだりしているやつの空席があること。それは「自由」や「権利」といった言葉がまったく不似合いな、ごく当たり前の光景でした。ただそれぞれが、それぞれでいるというだけでした。
「自由」が意識される契機とは、多くの場合、自由が脅かされたときでしょう。そして多くの場合、「不自由」はそれがさも正当であるかのような押し付けがましさを伴って現れます。
「雀百まで踊り忘れず」の要領で私が「自由」を意識し続けられたのは、端的にふてぶてしかったからだと思います。しかし、その不自由に拮抗しうるふてぶてしさは、私の育った環境が与えてくれたものでした。それを与えたと悟らせもせず。
虐待的な環境で育った方が幼少期を振り返って、「嫌だったけど、それが普通だと思っていた」としばしば語るのは、いかなるものであれ環境は所与のものだからです。(価値観までを含む)その所与の土台を内面化しつつ、私たちは育ち、考え、前に進むのです。子どもの育ちを「養育環境」という視点から考えられなければいけない理由も、そこにあります。
長ずるに、私が当然のように謳歌した自由気ままな中高の生活は、(当時は同じように自由気ままな一員としか映らなかった)教員たち学校関係者の真摯で懸命な努力によって支えられていたと知りました。
当たり前のことが易々と踏みにじられていのが世の常であったとしても、当たり前を正しく当たり前と感じられる養育環境をすべての子どもに与えられるよう、今できる最善のことをし続けなければと強く思います。
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