いわゆる「幽体離脱」は、現在では心理的な「解離」の一種と解されています。その成立に多くの人が関心を寄せるのはなぜかと言えば、それはもちろん、通常、そんなことは起きないからです。
実のところ私は、むしろそちらの方が不思議でならない口ですが、私たちの体は、どれだけ移動したとしても、私たち自身から離れません。私たちは誰もが自分(だけ)の〈からだ〉を持っています。
そして考えてみれば、私たちはみなそれぞれが固有の〈からだ〉を持つからこそ、互いに出会うのです。
超新星爆発から放出されるニュートリノのように、〈からだ〉を透過してしまうものと私たちが出会うことはありません。視線の交叉も、言葉のかけ合いも、手をつなぐことも、そうした接触のすべてが、〈からだ〉と〈からだ〉のあいだで生じます。
出会いの可能性それ自体であるような〈からだ〉は、しかし、しばしば透明にされ、あたかも幽霊のごとくにされています。一歩踏み出して手を伸ばせば触れられるはずの〈からだ〉たちが。
都会の大きな駅の構内は、これでもかと言うくらいに煌々とした明かりで満ちています。でも、その明かりが強ければ強いほど、不自然に大きなスーツケースを抱えた若者や、壁や柱にもたれてじっとしている路上生活者の人々は、私たちの視界から消されていくのではないでしょうか。
そうした人々の存在に気づくために、ときにこの世界は明るすぎます。喩うなら、燦燦と陽の照る昼よりも、月夜の薄闇こそがさまざまな輪郭を露わにするように。ただそれはいかにして?
考えるべきことは多いですが、そのなかには、やや迂遠ながら、光(明るさ)への信仰を自覚的に手放すことの必要が含まれるでしょう。それは有史以来の人類の願いでありましたが、畢竟、私たちは太陽のなかでは生きていけません。
そして、忘れてならないのは、私たち一人ひとりのうちに(誰もに等しく)小さな光源がぽつりぽつりと灯っていることです。
夜空に広がった星々の煌めきは、昼間は陽の光に一様にかき消されていようが、みな十分に明るく、そして何より美しい。地上もまた、そのようでありたいものです。
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