先月、大寒の日の夜、家路半ばの横断歩道で前方に、不自由な足を何とかキャリーケースで支えながら一歩一歩まえに進まれる高齢の男性が、ある既視感とともに薄闇のなかを浮かんで見えました。
それは、かつて数えきれないほど夢に見た私自身に重なる姿でした。10代後半から20歳過ぎまで私は、立ち上がることすらできない力に圧倒され、地面にへたり込みながら、それでも何とか必死で横断歩道を渡ろうとする夢を、繰り返し見ていたのです。
それゆえ(と言い切っては現実に困難の渦中にいる方にあまりに失礼ですが、それでも)、目の前の方のしんどさは、体が勝手に感じ取ってしまう類のものでした。
けれど、何とかせねばと戦慄くばかりで、結局のところ私にできることなどありません。
横断歩道を渡り切るまでのほんの少し、手を差し伸べたとて何になろう。
家に帰るまでの道のり、いや明日以降の毎日、その人はその苦労を背負い続けるのです。わたしは心中狼狽しつつ、赤信号になっても車が走らないように、少し離れた場所をゆっくりの歩調で歩くのが精一杯でした。車の往来がそもそも見込まれない時間と場所で。
名古屋駅でアウトリーチ活動をされている荒井和樹さんが以前、若者との関わりで「臨在」(ただそばにいること)が大切だと教えてくれましたが、そのとき「臨在」していたかもしれない私は、実のところどうしようもない無力感を抱え、呆然と歩いていただけです。
ただ信号を渡り終ると、足早に去ろうとしたその背後から、風の音にかき消えそうなかぼそさで「ありがとう」という声が聞こえてきました。
正直言ってそれは、嬉しいどころか、とても恥ずかしいことでした(だって何もしていない!)。
けれど今思い返してみるとそれは、「臨在」とは何たるかの一側面を示しているような気がします。
「あなた」が抱えている困難に対して「わたし」はどこまでも無力だけど、それでも「あなた」の前を去りがたいと感じる困惑のあらわれは、場合によってはいささか滑稽であれ、人間が人間をおもう気持ちの素直な姿と言えます。
そしてそれは「あなた」に直接の力は与えなくとも、「あなた」を一人にはしない、あるいは、したくないと願う人の存在を示すものです。
先月のセンター試験初日、一人の高校生が、たまたま東大本郷キャンパスが会場になっただけの受験生をまったく理不尽に襲う出来事がありました。
加害者の少年がなしたのはあまりに愚かで無意味なことです。
けれどその一方で、17歳のまだ幼さの残る少年をその暴挙に至らしめたのは、この社会には「上」と「下」、「勝ち」と「負け」があるのだと、そうした虚構を執拗に教え込んできた数々の暴力でしょう。
かつて夢の中でまでそれに苦しめられた一人として(おそらくそれは私に限らないはずです)、今どこかにいるだろう彼に対しても、ひそかに「臨在」を期しています。
代表中里のコラムは毎月更新!バックナンバーはこちらからもお読みいただけます!