トラウマ・インフォームド・ケアという考え方をご存知でしょうか。
ある人の、自分や周囲をいたずらに傷つけるばかりの行動を目にして、「なぜあの人はあんなことをしてしまうだろうか」と問うことがあります。トラウマ・インフォームド・ケアは、その行動の背景にトラウマ経験があるかもしれないと想定しつつ当人に関わっていくケアのあり方です。
この世界は傷つきであふれている。考えてみれば当たり前かもしれません。そしてその傷つきを広い意味でトラウマと呼ぶならば、「この世界はトラウマであふれている」とも言えるでしょう。
どんな人もケガしたり、病気したりするのと全く同じように、トラウマを抱えることがあります。しかし忘れていけないのは、放っておけばどちらも悪化するということです。
一つの病がさらなる病を呼び起こすように、ひとりのなかでトラウマはさらなるトラウマの呼び水になります。またウィルスが個を超えて伝播するように、ひとりのトラウマは別のひとのトラウマを生み出していくのです。
「こころの傷つきは隠れている」と言われますが、実際には隠れてないどころか、むしろ至るところに現れていると思います。それを適切に見るすべを私たちが持っていないこと、他者と生きる力のひとつとして私たちが養えてこなかったことこそが問題の消息でしょう。
ただトラウマにはケアの可能性が開かれています。トラウマが「外傷」として「外に」現れ、自分であれ他者であれ誰かの手がそこに当てられるならば、トラウマはむしろ自分と自分、他者と自分をつなぐ契機にもなります。トラウマが人をつないでいくのです。
一般に「傷ついた人はやさしい」と言われるのは、自身の傷つきに気づき、さらにそれが何らかの形で治癒と結びついた人が、ということで、傷つきのみの経験ではむしろ他者に対して閉ざされてしまいます。(子どもにとって養育者との原初的な関係はそれゆえに重要です。)
とはいえ、そうした留保付きで「傷ついた人はやさしい」という経験知が意味するのは、「トラウマは伝播する」をひっくり返したところにあるもう一つのストーリーの存在でしょう。すなわち「ケアもまた伝播する」のです。
医療の文脈で「傷ついた治療者」が語られることもありますが、ケアされた人はケアする人になれる。それはケアされた人が、人は傷つきうること、またそこから治癒しうることを知っているからだけではおそらくありません。そうではなくそれは、ケアされた人が何より目前の人のトラウマに気付けるようになるからではないでしょうか。何よりも「トラウマが見える」ことが、ケアの可能性を開いているのではないでしょうか。
「見える(知られる informed)」を通じて、トラウマ(とその連鎖)がケア(とその連鎖)に反転する。それが「トラウマ・インフォームド・ケア」ということなのだと、私は理解しています。
あの人のあの行為の背景には何らかの傷つき(トラウマ)があるのかもしれない。そのように考えること自体はきっとそれほど難しいことではないでしょう。しかしその発想の転換は、確実に私たちが生きるこの世界をケアにあふれた世界へと導いてくれるはずです。
執筆:中里晋三(Living in Peace共同代表)