心理学ではよく知られたものに「学習性無力感」という現象があります。実験動物に対し、逃亡や回避が困難であるような状況で苦痛を与え続けると、次第に逃亡や回避が可能な状況においても、苦痛から逃れる努力をしなくなってしまう、というものです。
すなわち学んだ結果、無力になり、考える力が奪われる。何とも逆説的なことで、機械的学習の限界を示唆している点は強調しておきたいと思いますが、なんてことはない、私たちの現実にとってはごくあふれたものです。
私たちが考えることが苦手なのは、私たちに考える時間が与えられていないからでもあります。かつてシモーヌ・ヴェイユというフランスの女性哲学者は、工員として工場労働に従事し、全体主義的なシステムのなかで考える力を失っていく過程で、思考の条件として自らの時間(彼女の比喩では「真空」)を持つ大切さに気付きました。
考えるには「暇」でなければいけないのです。けれど、暇であることの価値を徹底して貶める社会において、私たちは幼いときには素朴に発していた問いをきれいに忘れ、あるいは無力化されて、「真面目な」人間に成長していきます。暇を恐れるあまり、多忙にかまけんとすらしています。しかし問うことができず、どうして考えられるでしょう。
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以前、摂食障害の当事者の方々の話を聞く機会がありました。極度の低体重で危うく亡くなる危険すらあった方もいましたが、皆さん一様に、家でも学校でも周囲の期待に完璧に応えよう、応えなければならない、と生きて来られた方でした。人一倍努力して生きていった先で深刻な摂食障害を発症し、生きることの決定的な困難をずっと抱えるに至ったのです。
もちろん発症の背景は個々に複雑なものです。しかし一方で、真面目さとは人の命を脅かすものだということに気づかずにいられません。疲れた、怠けたい、休みたい、ふざけたい、というごく自然な欲求をすべて否定して「真面目でいる」こと。私たちの社会が、疑うそぶりもなく一人ひとりに要求しているそうした正しさを、私は疑っています。
人間が生きる社会は「人間らしく」あらねばならないとしたら、それはどのようなものでありうるのか。為すのは決して簡単なことでありませんが、Living in Peaceの活動もまた、常にそうした問いへと開かれたものでありたいと思います。
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