終わってしまえば、終わるんだ、という当たり前の感想を、しかし、それが当たり前に思えない時間ばかりを過ごしていただけに、本来だったらあってしかるべきと思うような手ごたえもあまりないままに、何となく抱きつつ、コロナ以前の生活へ戻りつつあります。
このゴールデンウイーク、知人に誘ってもらい、自発的には観ることもなかっただろう地球環境と農業のあり方をめぐるドキュメンタリー映画を観たのが、思いがけず刺激的な時間になりました。
さしたる意図もなく、何となくのことで、それまではそれが世界の全てと見えていたものの外とつながる。そうした幸運もまた、思えばこの数年は縁遠いものだったわけですが、映画中である人物が「無関心の背景には無力感がある」と語ったことが、今に続く余韻をひとつ私に与えています。
*
私たちは、それらが存在するからといって、森羅万象に等しく関心を向けることはできません。意味や価値がないように見えるものにまで、関心を向けている余裕はないでしょう。けれどその逆に、真に重要であり、人生のさまざまな局面で大きな意味を持つものを、関心の外に追いやってしまうことがあります。
それもまたひとつの身を守るすべでありながら、圧倒的に力を持つものに立ち向かうことを諦めるたび、守られるべき自己の重みは目減りしてします。私たち人間が、人間として生きていくには不可欠だろう希望が、未来に賭ける意思がそこで失われるからです。
人間として、と書きました。人工知能の目を見張る飛躍・跳躍が誰にも明らかである今だからこそ、(少なくともその対照で)私たちが人間であることの意味を見出すことができます。
それは、人工知能と異なって私たちが、言葉(記号)の外の経験世界を持ち、ままならない身体をともなって、今ここにおいて問い、考える存在だということです。そこにおいて言葉が意味を持ちうるこの世界のなかで、私たちは不完全であるがゆえに何かを問い、そして思い考えるのです。
ともに言葉や論理が関わるように見え、そればかりか私たちのなすことの方がはるかに頼りなく映りながら、分からないものと対峙する地点に思考は生まれるのです。算盤のなかで完結する算術の世界は無駄がなく、整然としているでしょう。しかしそこは、思考も、思考する主体も、思考されるモノも存在しない〈何もない世界〉です。
対して、私たちが生きる〈野生の世界〉は、ときに苛烈で、混迷を深め、絶望に落ち入ってしまいうる世界でもあります。けれども、いや、だからこそ、そこが、今はまだない状況に向かって問い、考え、何かの希望を見出して生きていく、私たちの(人間という生物種の)世界なのです。
私たち一人ひとりが様々な状況において在ることの力に思いをはせ、それを新たな希望とし、心を世界に傾けて生きていく、私たち人間の在りようを忘れずにいたいと思います。
代表中里のコラムは毎月更新!バックナンバーはこちらからもお読みいただけます!