緊急事態宣言が明け、ひさびさに混雑した電車に乗りました。乗客同士、意図せず体が触れ合う距離感も、このところ長らく経験しなかったものです。肘が服に当たる感覚はいつぶりでしょう。
しかし考えてみれば、他人同士の私たち乗客は、互いにゼロの距離で、世界で一番近くにいる二人ながら、そこにいかなるつながりも見当たらないのです。昨年来の「会えない」づくしを経た身には、こんな当たり前のことが十分すぎる驚きでした。
人とのつながりにおいて、同じ場所で同じ時をともにする以上の、あるいは以外の何が必要なのでしょう。
先日、あるファミリーホームにて縁あって哲学対話をしました。参加してくれた子のなかにひとり、中国から来日して間もない女の子がいて、まだ不慣れな日本語で普段は言葉にしなかっただろう思いを話してくれました。そのとき私のうちに温かく広がった感動は、なかなか言葉にしづらいものがあります。
それは、彼女の思いをよく理解、共有できたという感慨とも違います。その子自身、日本語では自分をうまく表現ができないもどかしさがあったはずですし、わたしにも結局彼女が言いたかったことが何か、十分に分かったと言えません。
それでも彼女が発する言葉の一つひとつが、対話全体を見事に豊かにしてくれました。まだその子のものではない言語で、しかしまごうことなきその子自身の言葉が、それを受け止めるわたしたちをつなぎとめてくれたからです。
思うに、対話の真のゴールとは、お互いの理解ではありません。むしろお互いを分からないままに尊重し合い、たまたま居合わせたもの同士つながっていくことこそが、対話がもたらす何よりの産物です。
近年、支援の文脈で「伴走」の重要性がいっそう語られますが、その人がいっしょに走ってくれなくても、ただそこにいて、そこにつながりを感じられるだけで、私たちは大きな力を得ることの方は忘れがちかもしれません。
ともに乗り合わせた車両で、みなそれぞれがつながりを感じられる日を夢見つつ、つながりを生むための方途を、これからも模索していきたいと思います。
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