さして空想癖があるわけでもない私なのですが、真夜中によく散歩をするので、人通りのない大通りを見つけては、見えない「空気の車」が自分のからだを突き抜けるのを感じながら、車道の中心線を歩いています。
あるいは歩道から、車道が運河と転じて、「空気の大汽船」がさざ波をわき起こしつつ、ゆったりと運ばれていくさまを一人眺めていたりもします。
むろんこれらは、現実ではありません。しかし、同時にそれらは私の日常をたしかに彩り、そこに私の生を(独自の仕方で)ありありと実感させるリアリティの一部をなすものです。
小さいころ、枕元を囲んでいっぱいに並べた動物のぬいぐるみの一つひとつに、おやすみをしてから寝ていたのを思い出します。ぬいぐるみに過ぎないそれらは、ある種の敬意をもって接せずにはいられないモノ以上の存在でした。
私たちの経験はしばしば論理を超えています。あるいは、経験のうちのいくばくかが、分かりやすい論理に転じるのでしょう。
そして、狭い意味での現実にとらわれず、この世界の生々しさに触れるのが得意なのは、私たちよりも子どもです。子どもとの付き合いはこの世界のありようを豊かに教えてくれます。
その最たるものと私がつねづね思っているのは、人は人が好きだという「真実」です。すなわち、私たちはつねに、目の前の人の喜ぶ顔を希っているという「真実」です。
子どもたちがその小さな体いっぱいで示してくれる「人を好きになる力」はいつも、人間は本性的に利己的だという狭隘な信仰を、すがすがしいまでに吹き飛ばしてくれます。
私たちの社会は、至るところに分断があり、力の不当な使用があり、悲しみと怒りの再生産が続いています。しかし、私たちの本性はつながりと、互いへの気遣いと、自他の笑顔をこそ求めてやまないのです。
狭苦しく、自己撞着的な今の社会の別様なあり方を構想し、現実の可能性を解き放つために、(極めて実践的な意味において)私たちが子どもたちとともに在ろうとすることの意味を改めて確認したいと思います。
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