多様性というものの価値をもはや問わなくてよい時代に、私たちは(ようやく)入りつつあります。
多様性(diversity)、あるいは包摂(inclusion)がLiving in PeaceというNPOにとって目指すべき星であるのは言うまでもありません。
しかし同時にそれらは、私たちの目には映らぬ、いわば特殊な発光をする星のようにも思います。
多様性とは、ただ「みんな違う」ということではありません。
あるチームのメンバーの身長が一人ひとり違ったとして、そのチームを多様性に富むと認める人はいないでしょう。
多様性とは、通常は同居しづらいものが同居できているときに、他(あるいは過去)との比較において認められる、規範的かつ相対的な概念です。
また包摂とは、ただ「みんな一緒」ということではありません。
歴史的にも日本を含む諸国が行った同化政策は、全員をひとつの傘に入れるものでしたが、むしろ入れる傘が一つだったがゆえに、包摂とは真逆の重大な暴力でした。
「円(circle)」に喩えられることの多い包摂も、それが広がる過程では、その中心が、それ以前の履歴を消すごとく、動いていかねばなりません。
ある時点のみを切り出して、都合よく「多様性」や「包摂」を語ってしまう誘惑は強いものです。
しかし多様性も、包摂も、つねに自らの過去や立場を問い返し、柔軟に、かつ力強く歩み続ける姿勢と切っても切り離せません。
社会課題に取り組むリーダーシップに重要なのは、困難な対話に取り組む力だと、かつて私に教えてくれた方がいます。本当にその通りです。
私たちは誰も答えを持っていないことを自覚しつつ、でも姿の見えぬ星に向かって、ともに歩もうとする信仰が、おそらくは対話の本質でしょう。
近年、対話(dialogue)はさまざまな手法として、紹介されてもいます(私も大いに学んでいます)。
しかし我々は、それらが先人たちのある時点でのすぐれた実践を見やすくするフレームに過ぎないことを一方で忘れてならないと感じます。
Living in Peaceは「すべての人にチャンスを」というビジョンとともに、多様性の尊重をCode of Conductに掲げています。
ただそれら二つが、団体内に限ったとしてもいかなる形を取りうるのか、私たちはいまだ道半ばで、模索を続けています。
いま一つ確かなのは、代表であれ、誰であれ、組織の中心を担うのは「人」ではないことでしょう。
しかしその先を見据えたときに、今日より明日が、今年より来年が、発光せぬ光源に向かっての確かな歩みとなるべく、「多様性とは何か」「包摂とは何か」を絶えず問い続けられる組織でありたいと、メンバー一同、願っています。