2、3歳の子のお絵描きを見ていると、上手とは言えはないその画面に、その子の「初めて」がいっぱいに広がっていることに気づきます。新しい色、線、形を、紙の白めがけて目一杯に描く。そのひとつひとつの「初めて」が重なって、その子の新しい世界が開かれていく。そこにあるのは、小さな冒険者の記録です。
新しい経験を通じて私たちは、新しい自己に開かれていきます。その自己の変容が生みだされるプロセスが「学び(学習)」です。できあいの箱にものをたくさん詰め込んでいくことを「勉強」と呼ぶのであれば、両者の差は歴然としているでしょう。
学びにおいて私たちは、それまでと異なる何かへと変わっていきます。であれば、何が待ち受けているか分からない将来に向かって、自己を開いていけることが、学びの前提になります。
しかし、それはそう簡単なことではありません。無防備ゆえに、あまりに危険で、考えれば考えるほど、そんな態度を取ってよいはずがないと思えるからです。逆説的ながら、理性的な人ほど、学びの可能性からは遠のくのかもしれません。
そのようなときに必要なのは、そのさきの自分を受け止めてくれると思える存在があること。あるいは、あなたはここまで来られる人であるよと、自分のなかの可能性を示してくれると思える存在があること。つまり、自分という存在の預け先があることです。
それは人に限らないでしょう。好きなもの、あるいは好きなことでもありえます。たとえば一冊の本が、いつ読んでもそのつど異なる私に気づきを与えてくれたり、わたし自身には気づけなかった私のありかを見つけてくれたりするように。
そして視点をより広く転じたとき、もう一つ大切なのは、社会そのものが新しいものに向かって構造的に開かれていることです。ここでいう「新しいもの」とは、(技術的にどれほど困難であれ)すでにある欲望の充実に過ぎない「最新のもの」ではありません。
それは、この社会の外からやってくる「未知のもの」のことです。新しく生まれてくる「子ども」のことであり、国境をまたいで訪れる「外国人」のことであり、あるいは「マイノリティ」と呼ばれ、またはまだ呼ばれてもいない人たちのことです。
これらの人たちの存在は「社会問題」として一つひとつ浮上するがゆえに、ときに私たちはそれに関わる意味を非常に小さく見積もって、背後にある大きな含意を見落としてしまいがちです。
社会を新しいものに向かって開いていくこと。あの日の光景をかつてのものとせず、私たちが生来の冒険者として生き続けていくために、Living in Peaceの活動も存在します。
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