うかうかと、のほほんと生きるのが習い性になっています。行動はつねに遅め遅めで、待ち合わせは大方遅れます。
間に合ったときは涼しい顔をしていますが、よく見ると、たまさかの幸運を勘違いしどこか自慢気なのが分かって何だか滑稽です。
ただ困るのは、スマホとか身の回りのものをしきりと見失うこと。ついさっきいじっていたスマホ、読んでいた本、脱いだ服が、今やどこにあるか分からない。大体にそれが出がけに起きるので、遅刻に拍車がかかります。
出てから忘れ物に気づき、取りに帰る(そして見つからない)こともしょっちゅうです。
ずいぶん刹那的に生きているような感じで、実際そうなのでしょう。しかしそんな私でも、過去と無関係に、過去を無きものとして、今のみに生きているのではまったくないのです。
*
先日ふと思い立って、小学校最後の夏休みの読書感想文で読んだ本をそのときぶりに再読しました。背表紙に、私が通っていた塾でのあだ名に「文庫」と付け加えて印字したテプラが貼ってある、当時の私のささやかな蔵書です。
そのあだ名はわりと屈辱的なものでしたが、そこに肯定的な意味を後付けて、文庫本の背に大きく貼り出したのは、せいいっぱいの矜持でした。
感想文に何を書いたかは思い出せません。が、そのときからさらに30年前に書かれた『ぼくがぼくであること』(山中恒)という物語に触発された何かを、11歳の私は懸命に記したのでしょう。そしてそれらは、20年以上たった今においても何ら変わらずに私のうちにあります。
うれしかったことも、いやだったことも、消えてなくならないばかりか、それがどんなに昔であれ、「どこか遠く」に行ってしまわないように思います。もちろん過去は現前していません。
けれど、過去は今この瞬間のうちに潜在し、私たちの生きる現在を底支えするものです。(そしてなお、現在において再帰的に過去はとらえ直され、新たな色を与えられ得るものです。)
いま私が感じる安心や心地よさと、私が幼児のとき、母が電車で私を膝に乗せてくれたうれしさはまっすぐにつながっています。
それはたかが1度や2度のことであれ、また30年も前のことであれ、今この瞬間とともにある過去、決して過去になることのない過去です。
*
あたたかな風が心地よく、生命の息吹をさまざま感じるこの頃、こどもの日も間近になりました。子どもの成長を願い、子どもが頼もしい青年となっていくのを喜ぶのは自然なこと。
しかしそのことによって子どもの日々の色付きではなく、社会が求める「成長」「自立」こそが大事であるかのような、そのために「今」の輝きが色あせてもよしとするかのような、この社会のありようは根底から変わらなければいけません。輝きのない今をいくら重ねたところで、輝かしい将来は永遠に来ないのです。
またこの四月、ついに「こども家庭庁」が発足しました。新たな省庁をひとつ創設することの想像を超える労力を想うとき、素直に首を垂れずにはいられません。ただその内実はこれから作られていくものです。
行政・議会の一部の人たちだけによってではなく、社会のなかで生きる私たち全員の思いと手によって。年度が変わるこの節目に、その認識と決意を一人でも多くの方と共有できればと思います。
代表中里のコラムは毎月更新!バックナンバーはこちらからもお読みいただけます!