「死の側より照明(てら)せばことにかがやきてひたくれなゐの生ならずやも」
陸軍少将の斎藤瀏を父とし、二・二六事件を首謀した青年将校とも若くに深い縁を持った歌人、斎藤史のこの代表的な歌を、ふと本のなかに見つけました。新年三が日が明け、暮れにサボった片づけを始めたものの、時機に失する感がして(簡単に言うと、飽きて)目についた本を手に取って眺め始めた折のこと。
咄嗟に、うつくしい歌だと思いました。しかしひと呼吸おいて、死の側より照らさずとも、と思いました。
果たして「ひたくれなゐの生」のかがやきは、私たち生者の目には映らないものなのでしょうか。
ある事柄が話題に上ると、それが興味深いことであるほど、次にその普遍性が問われる場合があります。「確かに面白い。でもその普遍性は?」と。通常は、より高い普遍性(一般性)を持つものほど、そこに高い価値が認められるものです。
では、最も普遍的な真理とは何か。
肩透かしを食らわせるつもりもないですが、その普遍性においてなかなか比類のないものに「A=A」(AはAと同じ)という等号関係があります。「1は1である」「人間は人間である」「その石はその石である」等々。
これは一般に、情報量ゼロ、つまり、いかなる新規性も持ちえない「トートロジー」(同語反復)と言われるものです。が、今このAを「わたし」「あなた」「あの子」「その人」としてみるなら、一見したところの陳腐さとは違う景色が開けてきます。
「わたし」は「わたし」である。
「あなた」は「あなた」である。
「あの子」は「あの子」である。
「その人」は「その人」である。
もうひとつ言い方を変えてみます。
「わたし」は「わたし」以外の何物ともちがう。
「あなた」は「あなた」以外の何物ともちがう。
「あの子」は「あの子」以外の何物ともちがう。
「その人」は「その人」以外の何物ともちがう。
これらを何となしに眺めているだけで、私たちは不断に普遍性を求めていながら、その一方で、もっとも普遍的であることの価値を、その完璧な普遍性ゆえに、すっかり忘れてしまっているように思えてなりません。
多元的な価値のなかには、それぞれの能力であったり生命メカニズムの複雑さであったりによって測られるものも当然あるでしょう。
けれども、「わたし」が、「あなた」が、「あの子」が、「その人」が在ることの尊さは、まず何よりも、それがそれ以外ではありえないという端的な事実のうちにもっとも力強く潜んでいると、私は感じます。
そして、この「A=A」というトートロジーを蹴破って突き上がってくる原初的なエネルギーこそ、斎藤史が歌おうとした「ひたくれなゐの生」のかがやきであるはずです。
「ひたくれなゐの生」はすでに、最初から、目一杯にかがやいている。しかしそれが見失われやすいものであるのなら、なおそれに抵抗する術や感性を、つねにわが身のうちに忘れず秘めておきたいと思います。
代表中里のコラムは毎月更新!バックナンバーはこちらからもお読みいただけます!